2017年10月31日火曜日

いま、哲学の見取り図を描くーー3つの軸で


現在「哲学をめぐる状況」は、どうなっているのだろうか?その地図をおおまかに描いてみたい、専門外の人にもわかりやすいように。

3つの軸を設定し、順に説明していこう。「大陸系/英米系」「学問/アマチュア」「純粋哲学/応用倫理」。


1つ目は「大陸系/英米系」。この軸では、抽象理論を好み「生の哲学」に寄りやすい大陸哲学(フランスやドイツ、イタリアなど)と、細かなところを緻密に論じ、ドライな論証に徹しやすい分析哲学(英米で盛ん)とが対立する。

参考文献:『ヨーロッパ大陸の哲学』(S.クリッチリー)

この対立軸は、主に「学問としての哲学」のなかではたらく。たとえば、ニーチェ、ハイデガー、デリダなどの研究者は「大陸系」に当たる。「大陸系」のなかであれば、デリダの研究者はニーチェやハイデガーを踏まえる、といった参照がありうる。しかし、彼らのうちで英米系の分析哲学に興味を示すひとは少ないと思う。逆も然り。

「英米系」は20世紀に隆盛を誇った言語哲学の流れを汲み、かつ、言語をメスでさばくように鋭く論理的に分析する。その「言語分析」を通じて、たとえば意志や心理の問題も扱う、というやり方をとる。

大陸系からすると、英米系の哲学は、無味乾燥で重箱の隅をつつくように見える。他方、英米系から見れば、大陸系の哲学は徹底した論証も、明晰な理論の構築もなしに、新しい概念をジャーゴン(隠語。外部にはわからない専門用語)として作り出す、非論理的な態度に傾きがちであると映る。

……おおよそ、こんな対立があると思う。ちょっと大げさだったら申し訳ない。

以上が1つ目の軸である。ちなみに、この間を橋渡しできるような哲学者を寡聞にして知らない。誰しもどちらかに傾くか、属すように思われる。なお、書店で人気があるのは大陸系だろう。

2つ目の軸は「学問/アマチュア」。「哲学」という言葉は曖昧さをもつ。たしかに狭義には西欧で生まれ育った学問だが、それが「哲学」のすべてではない。たとえば、自己啓発書や、小説やエッセイにある言葉が「哲学している」ことも十分にありうる。それらは西欧のアカデミズムにおける「哲学」ではないが、いわばアマチュアによる、非アカデミズムの「哲学」である。

アマチュア哲学のなかでも注目したいのは「哲学カフェ」と呼ばれる活動だ。これはゼロ年代以降、日本でも盛んになっている。そこでは、カフェでの談義のように「市民」が哲学の問いを扱う。学問の方法論や先行研究から離れて、自由に語り合う。

こういった「学問/アマチュア」の軸がある。ここには対立もあるが、橋渡しもありうる。さきの哲学カフェも形態によってはそうだし、勉強会やトークイベントを通して「学問としての哲学」と「非専門家、市民の感性」の間をつなぐことには意義がある。

3つ目の軸は「純粋哲学/応用倫理」。これらの項目をなんと名付けていいかは迷うところ。「純粋」よりも「基礎」(「基礎科学」のように)の方がよいのかもしれないし、「応用倫理」の方も、「応用哲学」と言うべきなのか、どうだろう?

ともあれ、この2つは具体的な現実の問題に応じる思想であるかどうかで分かれる。とくに最近、「応用倫理」の重要性が増しつつある状況を見込んでこの軸を設定した。

いまの時代には、とりわけ生化学・医療技術の発達により、「脳死はひとの死か」「ゲノム編集をどこまで許容すべきか」といった生命倫理の問題が重要なトピックになっている。また、社会的な問題についても、死刑の是非や憲法改正問題は、抽象度の高い思考や思想がバックボーンとして問われる。これらに応えるのも哲学の役割だろう。

とはいえ、大局を見れば、プラトン、アリストテレスから始まる古典や現在の哲学研究は、90%以上が「純粋哲学」だろう。科学で言えば、基礎研究に当たる。そして、実際に、哲学者の肩書きでさきのような具体的な問題に携わるひとはごく少ないように見受ける。

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といった感じで、3つの軸を設定した。「大陸系/英米系」「学問/アマチュア」「純粋哲学/応用倫理」。どれも、どちらか一方が他方よりすぐれている、という意味合いはない。これら6つの項目のどれもが「哲学」にとって大切でありうる。

余談だが、『遊戯哲学博物誌』を分類するとしたら、「大陸系・アマチュア・純粋哲学」といった風になるだろう。

こんな地図の上で、ひとや著作、団体の活動を位置づけしてみるのも、見え方がクリアになって面白いと思う。