2017年8月20日日曜日

ノスタルジアーー原郷喪失

A.タルコフスキーの『ノスタルジア』を観た。ずっと気になっていた作品。



ぼくははじめ、カタカナ語の「ノスタルジー」に通じる意味なのかな、と思っていた。感傷のこもる望郷であり、懐かしさの温かみを伴うような。だが、作品はもっと厳しいものだった。

正面から撮った顔のクローズアップがとくに前半でよく用いられるが、これは厳しいカットだと受け取れるし、後半に行くほど、それが故郷を喪失してしまった者の顔、いわば人生の背景を剥奪された剥き出しの顔であることがわかる。

このブログのタイトルを「原郷喪失」としたが、「原郷」という言葉は辞書にはなく、北海道文学館でたまたま見かけた本のタイトルから借りている。なぜ「故郷喪失」としなかったかというと。この映画にはとある狂信者が登場し、最後にローマで演説をして焼身自殺を図る。彼は主人公のアンドレイとも精神的なかかわりをもつ人物なのだが、故郷を失ってはいない。おそらくイタリアに生まれ、イタリア語を話し、一時は家族をもち、家もある。

しかし、狂信者もアンドレイも、帰属するところがない孤立した者という点では似通い、それゆえにお互いを理解もする。それで、ブログには「原郷」という言葉を使った。

また、アンドレイ自身、研究者としてイタリアに旅行に来ていることになっており、帰ろうと思えば、モスクワへ帰ることができる。だとすれば、霧のなかにモノクロームで浮かび上がる女性と子供たちとはなんなのだろう。アンドレイの家族と考えてもよいが、ずいぶん田舎の風景でもあり、ぼくはアンドレイの母とその家族(つまり、子供のひとりは昔のアンドレイ)と考えてもよいと思う。

そして、その家族と土地(子供の頃のアンドレイが観た原風景)は、二度と戻らない。それがソ連政府のせいなのか、単に過去だからなのかはわからない。

ともあれ、アンドレイの魂の一部はその風景に属しているのであり、魂のほかの部分はもはやどこにも属していない。すなわち、魂はもはや完全に失われたものとなにでもないものにしか属していない。

ちなみに、「ノスタルジア」というタイトルについて「アンドレイ・タルコフスキー映画祭」のホームページによれば、

「『ノスタルジア』(原題はロシア語をアルファベット表記してNOSTALGHIA)は、ロシア人がソ連国内を旅行した時には感じないが、ひとたび外国に旅行すると必ず強く襲いかかる感情で、死に至る病いに近いとさえ言える独特のものだとタルコフスキーは言う。」

と解説がある。カタカナ語の「ノスタルジー」とはずいぶんちがう。

土地に根ざすこと。その土地を踏めないこと。ぼくは(最後に個人的なことを書けば)自分の魂の一部が北海道に根ざしているのを感じるが、いまは北海道にゆくことができない。そして、北海道を含めて、この世界のどこにも属しておらず、ただこの体のある場所にだけ、ぼくの魂もある、という孤立の感覚を常に抱き続けてきた。幼年時代さえ、思い出すことがほとんどない。

映画のラストシーンは奇妙であり、初めて故郷らしき風景のなかに大人のアンドレイがいるのだが、その風景が柱廊に挟まれており、あからさまな合成でできている(と受け取って良いと思う)。それはキリスト教の神と和解したか、他界したアンドレイを表すようだが、どうもぼくは彼が死後にあっても、どこにも属さず、神を感じてもそのもとへ帰っていけなかった(だからいびつな合成になる)ように思えてならない。

* 詩的なモチーフ、映像の陰影、ロングショット、キリスト教的なテーマ(友人は「贖罪」に言及していた)には触れられなかった。