『パンセ』はもともと『護教論』のために書かれた準備ノートであり、それが死後、編纂されたもの。したがって、神学的なのは当然であり、たとえば計100ページ以上にもわたる聖書からの引用の書き留めもある。また、パスカルはジャンセニスム(宗派)の徒として、アリウス派、イエズス会、カルヴァン派を否定する論を立ててもいる。また、イスラームが真の宗教ではないと書き、ユダヤ教についてはキリスト教の前段階として認めている。このあたりは保守的だ。
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ここでは「考える葦」に関連する「哲学」の方に目を向けよう。
「あらゆる物体、すなわち大空、星、大地、その王国などは、精神の最も小さいものにもおよばない。なぜなら、精神はそれらのすべてと自身とを認識するが、物体は何も認識しないからである。」
「あらゆる物体の総和も、あらゆる精神の総和も、またそれらのすべての業績も、愛の最も小さい動作にもおよばない。」
物体を超える精神、精神を超える愛。この「愛」こそがキリスト教の目指す唯一のものである、とパスカルは考える。こうして、「理性」を称揚しながら、その理性を超えたキリスト教の真理へとパスカルは向かう。
『パンセ』の初めの方にこんな言葉がある。
「哲学を馬鹿にすることが哲学すること。」
パスカルは神学を哲学から分けた上で、神学の方の重要性を説いている。ここでの意味は、哲学の不毛な議論に陥るよりも、神について考えること(神学)が大切だ、ということか。
もっとも、パスカルが哲学をしないわけではない。彼は「独断論」と「懐疑論」を分けたうえで、その対立に悩む。どちらかというと「懐疑論」にシンパシーを抱いていたようだ。
しかし、真理が相対的であるとする懐疑論は本来まちがっている。キリスト教だけが真理だから。他方、人間は真理を知ることができないので、独断論も懐疑論もともに説得的である。あえて言えば、ともに正しく、かつ、まちがっている。ーーおよそこんな二律背反を説く。
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パスカルは、人間には偉大さと悲惨さが両方あると説く。人間は、神と獣の間にいる。その偉大さは、「考える」力をもつことにあるのだが、腐敗し、悲惨を知る点では獣よりも不幸かもしれない。そこで、人間を救うのはやはり信仰である。
訳者解説によれば、「合理主義と人間中心主義が信仰をあやうくする」とパスカルは考えていた。このあたり、僕の感覚では、ニーチェ(1844-1900)と似た問題意識のなかで方向性は鋭く正反対を向いているように思えた。
また、パスカルは先人であるモンテーニュ(1533-92)を「純粋の懐疑論者」と呼ぶ。たしかに、『エセー』は信仰には距離を置くルネサンスの書だ。パスカルは、モンテーニュが「私は何を知っているだろう(ク・セ・ジュ?)」を座右とした点を引き合いに出し、これを懐疑論として退ける。とはいえ、いまのわれわれからみれば、ふたりともフランス思想史を代表するモラリストの系譜なのだが……。
モンテーニュ |
パスカルは言う。幾何学、算術、音楽、自然学、医学、建築学などは感覚と推理のもとにあり、理性のもとにある。そこでは、古人の権威は無効であり、新しい実験と推理が道を開く。だが、神学は聖書の権威から真理を引き出す、と。
こうして、パスカルの『パンセ』を起点にさまざまの哲学者との距離を測ると面白い。
『パンセⅠ、Ⅱ』、パスカル、前田陽一、由木康訳、中央公論新社、2001