2017年3月15日水曜日

【感想】ラ・ラ・ランド〜歌って踊って、もっと!

 映画『ラ・ラ・ランド』はとてもよかった。傑作だと感じられた。他方で、観た後に批評を読むと賛否両論に分かれる様子が見えて、面白かった。そのあたりを3つのパートに分けてまとめてみたい。


<以下、ネタバレを含む>

 まず、個人的な感想をかんたんに。その後、ストーリーをさらう。最後に、厳しい批判について(それらを面白く読んだ)触れたい。

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 『ラ・ラ・ランド』はミュージカル映画。冒頭から歌と踊りが素敵で、魔法のような世界がくり広げられる。かなり非現実的な部分もまた美しい。ぐいぐいと引き込まれ、場面転換も楽しく、のめり込みながら最後のシーンまで連れてゆかれた。

 個人的な注文がひとつ。観ながら望んでいたのは、どんなストーリー展開でもよいから、とにかく最後は歌って踊って終わってほしい、ということ。これは、似た形式の『アナと雪の女王』で物足りなく感じた点なのだが、明るい前半部ではミュージカル全開なのに、ストーリーが進むにつれてシリアスになり、「歌と踊り」が減ってしまう。それが残念だった。
 
 ラ・ラ・ランドでは、最後の「こんな未来もありえた」という空想シーンで、歌と踊りが再登場したことで希望の半分以上は満たされた。でも、もっと徹底的に歌って踊ってくれてもよかった!

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次に、「歌と踊りの論理」と「物語の論理」の観点からストーリーをふり返ってみたい。

 まず、前半(起承転結で言う「起承」の部分)は「歌と踊りの論理」にしたがって進む。冒頭、いきなり渋滞の高速道路で、みんなが歌い、踊り出す。車のボンネットでブレイクダンスをして、自転車が車の屋根でアクロバットを披露する。人種もさまざま、服装もさまざま、彩りあふれる序章の炸裂。「ふつうは起こりえないことが歌と踊りの魔法で起こる」という世界観が示される。

 高速道路シーンの最後に、主人公のふたりが登場。ヒロインのミアは女優を目指してカフェで働いている。相手のセブは自分の店をもちたいジャズピアニスト。ふたりとも、未来はあるがお金はない、夢追い人として描かれる。
 
 ふたりは徐々に恋に落ちるが、ほどよい距離感やドライさがあることで、観る方もクールさを保てる。ここでは、感情の機微によらず、陽気な「歌と踊りの論理」にしたがってはちゃめちゃな仕方で恋が進展する。前半のクライマックスは、誰もいないプラネタリウムでふたり空に浮いてダンスをする場面。こうして、魔法のような恋が成就する。
 
 後半は一転シリアスなドラマになり、葛藤する心理を描く小説のように「物語の論理」が支配する。起承転結で言う「転」に当たるのが、セブの転向。ミアとその母の電話を横で聞いてしまい、自分が安定した職に就いていないことが後ろめたくなる。それで望まぬ契約を結び、「古典的なジャズピアニスト」からポップなキーボーディストに鞍替え。そのライブに行ったミアは困惑する。
 
 このライブシーンは、歌がうまく映像も沸き立つものだが、舞台上で諦めた様子のセブと観客のなかで乗れないミアがよく撮られている。そのせいで、観る方はふたりに気を取られ、上出来なポップソングを素通りしてしまうという巧妙な作り。もはや「歌と踊りの論理」は影をひそめてしまう。
 
 ふたりはセブの家でディナー。幸せそうに乾杯するが、セブが新しいバンドで何年もツアーをやる計画を立て、同行しないか、ともちかけることにミアは戸惑う。それではふたりとも夢が叶わない、と。いらだったセブが「きみは優越感に浸りたくて、不遇な俺とつきあったんだろう?」というような台詞を吐き、ふたりのすれちがいがひどくなってゆく。
 
 ところが、ミアに幸運なオーディションが舞い込んだのをきっかけにふたりは関係を修復する。このオーディションの場面で、ミアは静かな歌を歌う。それは夢追い人を「愚か」なひとたちと呼びながらも切実に応援するもの。ここで「歌と踊りの論理」がちょこっと顔を出し、オーディションに合格。ミアはパリで女優を目指すチャンスを与えられる。これで後半はほぼ終了。
 
 エンディングは、5年後。ミアはパリで大成功し、どこかの紳士と結婚して子供をもち、ロサンジェルスに戻っている。夫婦でふと入った店は、偶然にもセブの店であり、セブとミアの目が合う。そこで、回想シーンのように、ふたりが幸福に結ばれたらどうなっていたかという架空のストーリーが「歌と踊り」によって展開される。しかし、現実にはセブとミアは思いのこもったまなざしを交わし合い、ミアは店を出る。The End.
 
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 この映画のテーマは、(とくに物語の後半では)「夢追い人」だ。エンディングまでの5年間にどうやってふたりが成功したのかは描かれないが、ともかく、ふたりは夢への道を走り抜けた。ただし、結婚というかたちで結ばれない。そのような半分だけ悲劇的な結末だ。
 
 だが、この「半分悲劇」が実は一番ロマンティックなのだ、とも解釈できる。完全なハッピーエンドはかえって現実を感じさせるし(セレブになったというだけ)、また、ふたりとも夢も恋も破れたのなら、それはやはり現実の厳しさを突きつけるから。その点、この結末は終演後の余韻にまで「夢追い人の定まらなさ」の印象を与えることに成功している。

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 さて、ここから批判への応答パートに入りたい。この作品は、前半部で歌と踊りの魔法に引き込まれるかどうかが鍵だ、と思う。後半部も、いわば魔法の夢から覚めやらずに始まるからこそ、シンプルな筋立てで物語が必然性をもちうる。そこが、愛すべきキャッチーさになる。しかし、前半で魔法にかからなければ、粗い映画に見えるようだ。
 
 たしかに、脚本(台詞と筋)に文学の味わいは少ない、ジャズがテーマのひとつなのに扱いがいい加減である、また、音楽に厚みがない等々、指摘されればうなずく。(あと、前半のカメラワークは動きが大きすぎる、と感じた。被写体がよく動くから、カメラは抑えてもいい)。

その点、総合芸術としての映画を求める向きには難色を示されそう。だが、少なくともエンターテイメント映画としての質は高い。
 
 実際、ひとつひとつの「簡単さ」が、総合的には「歌と踊り」の魔法にかかるハードルを下げている。文学で喩えれば、ちょうど校正もまだで推敲もされていない生原稿が、それでも一気呵成に書き上げられた勢いをもつように、この映画には全体に推進力がある。それはとても大切なことで、幅広いひとが楽しめる作品だと思う。

 主演のエマ・ストーンとライアン・ゴズリングは、共演をくり返して相性がよく、監督もふたり発のアイデアを今作のなかに積極的に採り入れたと言う*。
 

*『ビッグイシュー305号』、2017、2月15日(スペシャルインタビュー「エマ・ストーン」)
 
 厳しい批評も面白く読んだが、それでもなお、やっぱり素晴らしい映画だった、と思える。