2016年11月18日金曜日

『女のいない男たち』をきっかけにーー村上春樹とその向こう側


これは『女のいない男たち』をきっかけに、いまの時点での村上春樹評と、その先に見えそうな景色を書いたもの。



「村上春樹は短編がいいよ」と聞いて、ちょうど書店で並んでいた『女のいない男たち』を手に取った。たしかに、長編とは味わいがちがい、軽さがある。

いままでは長編を中心にチェックしてはげんなりして、アンチ・ハルキストだった。あえて「アンチ」と言うのは、氏の力量がどうのではなく、その作風が体現する「時代精神」に抗いたかったから。

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『女のいない男たち』の「木野」という短編を読んでいて、「ジュヴナイル」という言葉が浮かんだ。「青春小説」といった意味合いで使われる言葉だが、この短編の感性に「若さ」を感じた。

その若さは、処女作から変わらないフレッシュさに通じる。逆に言えば、とりたてて進歩がない。よくも悪くも一芸の書き手であり、外見、ファッションの部分で手を替え品を替えしている。

(唯一、『村上さんのところ』のような人生相談、知識人に似たポジションの仕事は、ほかの書き物とちがった意義をもってこれから展開しうる、と思った)。

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代表作のひとつ、『ノルウェイの森』のスペイン語訳は、タイトルが『東京ブルース』だったらしい。訳者の感性の鋭さに驚く。

というのも、村上春樹の小説は、茫漠たる「東京」の生活感に根差しているように思うから。どこかとてもドメスティック(地域に閉ざされている)であり、同時にメトロポリタン(大都会の広がりがある)でもある。まさに「東京」の小説家だ、と。

実際、(首都圏でなくても)都心の雑踏に紛れて、自分が孤独だと感じ、(実存的な)不安を覚えるようなときに、氏の小説はすっと入り込んで来ないだろうか?

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今回、『女のいない男たち』を読んで視野が開けたように感じ、僕にとっての村上春樹像はニュートラルに近づいた。僕自身が、札幌と東京で生活してみて、「東京」を相対化できたことも、たぶん影響がある。もうアンチという気もしない。

こんな風に無難で、わりと中立的な結論に至ったのは、いま、時代の風向きが変わり、もはや「村上春樹ワールド」がほんの少しずつ過去のものになりつつあるからかな、とも思う。

もしかしたら、村上春樹の向こう側にあるのは、社会の過酷さ、貧困、病苦や老いの生々しさが、抽象的な孤独や不安だけをテーマにした文芸への共感を拒む景色ではないか、と。