「哲学ってほんとうに男くさくて……行間がないと思いました」
と感想を述べていて、印象的だった。
「わたしは文学を勉強してきたから」とも。
たしかに、一般に哲学では「行間の余白をできるだけ詰める」(比喩的な意味で)ことを目指しているのかもしれない。論理の隙間がないように……反論を受けつけず、説得するように……。
また、「男くさい」と感じられるのは、民主制のギリシャ以来、男性中心の政治的な言語とかかわりが深かったのかもしれない。
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新しい哲学の本『遊戯哲学博物誌』(紹介ホームページはこちら)を公開し始めたところだが、この本は行間に余白がありそうだ、と思う。(物理的にはある!)
とある友人からは、「ソクラテス・プラトンに始まる一般的な哲学とは趣を異にしている、それを踏まえてはいますが……」という感想をもらった。
しかし、『遊戯哲学〜』への判断がどうであれ、本来、哲学は文学であり、堅くて確実な、と思われがちな「論理」にしても、ひとつの叙述スタイルにすぎない、という考え方は、僕にとってなじみ深く以前からある。