2016年3月8日火曜日

【本の紹介】『テアイテトス』(プラトン)


岩波文庫、田中美知太郎訳の『テアイテトス』を読みました。昔の訳で読みづらい(いまの訳者なら、もっと噛み砕いた表現や補足を入れそう)とも思いつつ、正確さと一昔前の日本語の豊穣さを感じられる良さもあります。


本書をひと言で表すよう引用すると、「知識であるのは、テアイテトス、君の言う感覚でもなければ、また真なる思いなしでもなく、そうかといってまた真なる思いなしに言論の加わってできるものでもない」(最後の方の場面でのソクラテスの台詞)となる。

この『テアイテトス』は、「知識とはなにか」と問うことがテーマの対話篇なのだが、3つの説が挙げられたのち、3つとも否定される。そこに、プロタゴラスの「万物の尺度は人間である」という説の批判やヘラクレイトス一派の「なにもかもが生成で、静止するものはない」説の否定も組み込まれ、全体の構成は2つ3つの糸が縒り合わされたようになっている。

とはいえ、複雑ながらも、本筋は3つの仮説と3つの否定であり、肯定的な答えは出ないまま、物語が終わる。議論すること、すなわち理論を立て、補強し、しかし反例が見つかれば理論を捨て去り、ということをくり返すプロセスそのものが『テアイテトス』である。

ここでは、議論の詳細には踏み込まず、おもしろいポイントをピックアップしてゆきたい。

・ソクラテスの対話は、しばしば「産婆術」になぞらえられるが、本書に詳しい叙述がある。

ソクラテス うん、ところが、僕の心得ている産婆取上げの術には、いま言った産婆たちのもっているほどのものは、みな所属していて、ただ異なるところとしては、男たちのために取上げの役を務める…(中略)…しかもその精神の産をみとるのであって、肉体のをではないということ…(中略)…一番大事なことでこういうのがふくまれている。すなわち、当の青年が思考を働かせて分娩したところのものが為似者(にせもの)や偽物であるか、それとも正物であり真物であるかを百方検査するということができる

ソクラテス自身による「産婆術」の詳細である。ちなみに、この物語の終わりでは、「産むだけのものはもうすっかり産んでしまった」かとソクラテスが尋ね、テアイテトス(青年)が、はい、と答えることで、決着がついている。

・対話の合間に、ソクラテスが、われわれは実は眠っていて、これがみな夢なのだろうか、という、荘子の「胡蝶の夢」に相当する問いを発する箇所がある。この疑問は洋の東西を問わないのだな、と感じた。

・これも対話の合間にソクラテスが言うのだが、「知恵の探求者」(ピロソピアー=哲学者)は「時間の余裕」があり、「悠々閑々」と議論をする、その点で水時計にせきたてられる法廷の弁論家とはちがう。この箇所は、「時間の余裕」が哲学には必要だ、と述べていて興味深い。アリストテレスが奴隷制を肯定していた、とはよく言われるが、プラトンも、奴隷労働によって支えられた市民(のなかの有閑階級)の営みとして、知恵の探求(哲学)はおこなわれる、と考えていたのかもしれないね、と思った。

・これもソクラテスの余談なのだが、さきの続きで、哲学者は「おおよそあり(傍点)としある(傍点)もののおのおのについて、それの全体としての性分すべてをあらゆる方面に探究しながら、ピンダロスの言葉のごとくに、その運動は「天の外にも地の下にも」及ぶものなのですが、卑近のものには何一つ身を下してこれに親しむことをしないからなのです。」

世界全体について思考するが、卑近のものにはかかわらない、という哲学者の脱俗的なあり方が描かれる。ところが、だからえらい、という話でもなく、直後に、哲学者のタレスが星について考察しながら、上を向いて歩いていたら、穴に落ちて、下女に「面前のことや足元のこと」には気づかないと指摘された、というユーモラスな逸話を語っている。

常識を備えたプラトンによる、笑いを交えた、浮き世離れの奇人ソクラテスの讃美として受け取れる箇所だ。

長くなってきたので、このあたりで打ち切るが、こうした細部の語りが面白い対話篇である。