2016年3月10日木曜日

人間を人間たらしめるーー祈り


人間ってなんだろう?と考えるとき、これと思うこと。


昨日の哲学カフェで、「動物と人間のちがい」が話題になった。それは「動物は故郷をもつのか」という問いだったのだけど、こういう問いは昔からある。いわく「動物は感情をもつのか」(ペットをもつひとは「ある」と答えるだろう)「動物にも言語はあるのか」(イルカ?)「動物は思考するのか」(思考の定義によるか)。

ともあれ、いまの僕が「動物と人間はどこがちがうか」と問われたら、「祈り」と答えたい。祈りの動作をすること。

動物も「願い事をする」という意味では(たとえば無事を)「祈る」かもしれないし、大地のうえを歩くことそのものが「祈り」だと言われれば、そうかもしれない。ただし、観念としてではなく、祈りにしかないような動作はしないのでは、と思う。

キリスト教なら、礼拝も、聖餐にあずかるのも祈りの所作であるし、イスラム教ではモスクでの礼拝も、その外、家庭やオフィスでの祈りも欠かさないひとが多いと聞く。

日本では神仏に祈るほか、ユニークなのが「手を合わせる」こと。アメリカの文学者で日本を研究するジェイ・ルービンが言ったそうだが、日本人の「手を合わせる」先は、特定の神様ではない。あえて言えば、八百万の神であり、むしろ、「おてんとさま」といった日常的な言葉で表されるものだ、と。それで彼は小説に "The Sun God" というタイトルをつけた。(これは本のカフェで教わったことだ)。

実際、ちゃぶだいの前でご飯に手を合わせるひとのいくぶんかは、「日々の恵みを主に感謝する」よりも、お米一粒一粒に宿る神さま、あるいはお米そのものに感謝するのじゃないだろうか。

話が少しずれたけれども、こんな風にとりわけ「両の手のひらを合わせる」という形で祈りの動作をするのは、人間を人間たらしめる特徴なのかな、と考える。


余談で締めるが、中世ヨーロッパでは「耕す人」「戦う人」「祈る人」の三区分があった。それぞれ農民、騎士、聖職者を表すが、それを離れて連想するとき、食物を得ること、身を守ること、祈ること、の三つが人間の生活の根底にある、という見方も浮かぶ。