2016年3月12日土曜日

ミステリのハードボイル度/ロスマクの『さむけ』とチャンドラー


今日は、翻訳ミステリ札幌読書会でロス・マクドナルドの『さむけ』を課題図書に語り合ってきました。「ロスマク」はダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーと並ぶハードボイルド三大巨匠ですが、僕には物足りなかった……。


読書会では、初めにミステリ・マニアであり、ロスマクのファンによるプレゼン紹介があり、これが充実していました。

その紹介によると、ロス・マクドナルドの特徴は、主人公の探偵の存在まで希薄にしたこと。もともと、ハードボイルドは心理描写を削るわけですが、探偵のリュウ・アーチャーをまさにプライベート・アイ(探偵)の「眼(アイ)」にしてしまうところまで、個性を消し去った。もうひとつの特徴は、ストーリーのプロット(構成)に起伏がないこと。淡々と、アーチャーが関係者の話を聞く場面がくり返されて、犯人を見つけるところまでゆく。だから、「読んで5分経つとストーリーを忘れる」と言う評論家がいるほど、とのこと。

これらはすべて、なるほど、と思われる分析でした。他方、僕にとってはチャンドラー基準のハードボイル度の計り方を示唆された気がして、以下に列挙してみます。

1.ユニークな比喩がある。チャンドラーの比喩は卓抜で、些細な描写のために、2,3行を使って意想外の比喩を持ち出すことがたびたび。これがウィットにもなり、ユーモア、また下の冗長性にもなっています。

2.冗長性がある。すべてのすぐれた文学作品には、冗長性と退屈さがあります。プルーストなんて、全体に冗長性が充ち満ちてそれが詩になっている。チャンドラーの小説は、冗長性を省けば、3/4か2/3に分量を減らせそうなくらい、余計な描写、微に入り細を穿つ人物描写、なくても成り立つシーンが差し挟まれます。

たとえば、僕が好きなのは、『ロング・グッドバイ』において、精神科医のものらしき頭文字が事件の鍵になり、3人の危険な精神科医のところに乗り込んでゆくのだけど、どれもはずれで捜査がスタート地点に戻るところ。ここ、全部なくてもストーリーは成り立つのですが、当時のカリフォルニアのイカサマ精神科医たちの姿が生々しく戯画化され、やりとりはタフで快活、面白い場面に仕上がっています。

3.気の利いた台詞がある。心理描写のないハードボイルドというジャンルでは、いわば映画のように映像を浮かべる場面が増えます。そこで、チャンドラーの丁々発止のやりとり(これはダシール・ハメットにもみられる)やくだらないジョーク、うまい切り返しは映画の一場面のように痛快、驚き、笑いをもたらしてくれます。

4.探偵の個性。とくに、こだわりがあること。心理描写に頼れない文学では、アクションや行動指針のユニークさはより活きます。友情のため、気紛れ、仁義のため、お金や冒険のため etc. こういった行動の一貫性が彼らを際立たせます。

これらが暫定的なハードボイル度の基準(チャンドラー比)です。その後のロスマクに残されたスタイルはと言うと……

1.ユニークな比喩については、チャンドラーの影響を受けたロスマクもちょっと意外な比喩を用いますが、貧弱です。2.冗長性は、ロスマクの場合、丹念な聞き取り捜査がときに遠回りになることで保たれています。3.気の利いた台詞は、翻訳にもよりそうですが、『さむけ』にはとくにみられません。4.探偵の個性は消されています。

いや、ロスマクのスタイルはリアリズムだ、という意見も、読書会ではありました。丹念な聞き取りのくり返しと、報酬を得て職業探偵をする点です。けれども、僕が『さむけ』を読んで思ったのは、台詞の駆け引きもないのに、すべての聞き取りに行った相手が、こんなにぺらぺらと、私立探偵に対して口を開かないだろう、ということでした。「RPGのよう」という意見もあったそうですが、RPGの村人よろしく、探偵が話しかければ、なにがしかの話をしてくれるのですが、あまり現実的ではない。というわけで、「ロスマクのリアリズム」もひとつのフィクションなのだ、と僕は理解しています。あとはどのフィクションが好みか、の問題です。

こうして書いてみると、チャンドラーの基準から、ロスマクを斬るような文章になってしまいましたが、ロスマクのスタイルが独創的であるから、こういった相違も際立つのかな、と思います。

たしかに、チャンドラーはクイニ・アマンでバターも砂糖もたっぷり、香ばしく、ロスマクはフランスパンを複雑な手順で焼いた、という印象があり、それぞれ好き嫌いは分かれるのでしょう。

(ちなみに、彼らの先輩であるダシール・ハメットの『マルタの鷹』は凝縮された密な文体と、宝への欲望うずまく展開が息を飲み、これは古典的なものの先駆けたりえる作品だと思いました。)

こんなところで、ハードボイル度の話はおしまい。ずいぶん恣意的な書き方をしたけれど、それでも、次はロスマクの不幸な人生を反映した傑作という『ウィチャリー家の女』を読んでみようかな、と思っています。

* この記事に対して、ロスマクは、中流階級の荒廃を描いた「家庭小説」として凄みがある、というご意見をいただきました。