2015年8月27日木曜日

「知」と本のカフェ



僕が主催している読書会イベント「本のカフェ」は、知的な集まりでもある。けれども、そこで「知」はただおしゃべりのきっかけ、交流の始まりとして大切にされている。けっして、「知」の提供や増進がイベントの目的ではない。

本のカフェには、「知」があるとかないとか、そういうことを気にせずに、いろいろなひとに来てもらって、楽しんでもらえる場所であってほしい、と最初からずっと思っている。


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だから、「知」についての考えを少し話そう。まず、「知」は、本から得られる知識や、歴史から学べる知恵でもあるし、ローカルトークのネタでもあり、世の中のトレンドを押さえるポイントでもある。これらは楽しい知だ。学問も科学も歴史も物語も、そう。愉快で、面白い。勉強は生涯、終わることのない遊びだと思う。

他方で、同じ「知」が「知るひと」と「知らないひと」のあいだで、立場の強い弱いを分ける分水嶺にもなりうる。長い歴史を、社会的に、政治的に、マクロな文明史で見れば、「知」は人類を分け隔て、ひと握りのもてる者と、より多く苦しむひとびとに隔てもした。「知」はそれを正当化し、制度で支える道具としてはたらいた。


そういうわけで、僕は、「知」は無条件によいものでも、とくべつ「えらい」ものでもないと信じている。そんなことより、隣のひとに親切にして、友達を大切にして、家族や親戚と平和を築けるならば、その方がずっとすぐれている。

だから、知を楽しみながらも、知にこだわることなく、「本のカフェ」を運営してゆきたいし、なによりひととひとのよい交わりの場として、本のカフェを作りたい。来てくれるひとも、そう願ってくれたらうれしい。