2015年6月19日金曜日

【本と珈琲豆】『ドゥルーズの哲学原理』國分功一郎


政治哲学、スピノザ〜ドゥルーズがご専門の國分功一郎さんによる『ドゥルーズの哲学原理』。國分さんにしては難解な本だが、入門書の趣も7割くらい。以下、かんたんに紹介してゆこう。

ドゥルーズ哲学をその「方法」から「思想」「実践」へと辿ってゆく、適切にドゥルーズを論じるための地ならしをする本、と著者は位置づける。

まずタイトルを読み解きたいが、これは『デカルトの哲学原理』(スピノザ著)を意識しているはずだ。また、國分さんはべつの著書『近代政治哲学』(ちくま新書)において、『デカルトの哲学原理』は、スピノザが、デカルトよりもさらに徹底してデカルトの示した方向へ進んだ本、と評価している。これを踏まえると、國分さんが「ドゥルーズよりもさらに徹底してドゥルーズの進んだ方向を見極める」ことを高い理想として掲げて、本書の執筆に挑んだことが伺える。

前半の3章は、「入門書」の趣がある。過去の哲学者に関するモノグラフを書く、というドゥルーズのスタイルに着目しながら、そこにある「方法」を見つける。「問い」とは、(すでに過去の哲学者が立てた)「問いの批判」と同じことだ、というドゥルーズの考え方を示し、すなわち、哲学者のモノグラフを書くことが、彼ら自身よりもさらに遠くまで、彼らの立てた問いを押し進める作業となり、結果、そこに「ドゥルーズの思想」が形成される。(Ⅰ章より)

次に、ドゥルーズの初期から晩年まで一貫する立場として、「超越論的経験論」という彼の造語を挙げる。哲学史では、ヒュームの経験論と、大陸系の合理論の総合者としてカントの「超越論哲学」が生まれた、というのが定説だが、國分さんの読みによれば、ドゥルーズはカントを高く評価しながらも、これを再びヒュームの経験論と総合する。

すなわち、カントは「超越論的」な主体(自我、カテゴリーetc.)を想定することで、経験論と合理論を総合した(乗り越えた)わけだが、すると、その「主体」の発生が問われなくなってしまう。主体はア・プリオリなもの、所与とされるが、この超越論的な主体が「いかに構成されるか」をさらに問うのがドゥルーズである。たしかに、そうしなければ、変化の条件を問うことができなくなってしまう、と國分さんは読み解く。

実際、「差異の哲学者」であるドゥルーズからすれば、「超越論的な主体が最初からありました」では済まされないはずで、その主体はいかにして、差異の海のようなところから生まれたのかを問う必要がある。その「発生」への問いは、「出来事」や「特異性」「他者」の概念を通して、答えられる。(Ⅱ章より)

Ⅲ章では、「実践」が扱われる。プルースト論を下敷きに、めくるめく登場する「シーニュ(しるし)」の読み解きを習得することで、われわれは偶然の出会いから行為を生み出してゆく。けれども、それが受動的な「実践」(しるしを待つわけだから)であるところに、ドゥルーズ自身の不満もあったのではないか、と國分さんは言う。

これらに続くⅣ章、Ⅴ章は本書の約半分にあたる。たとえば、フロイトのタナトス論や、ラカンの精神分析をまとめた箇所があるが、それらは単独でも、大学の講義で半年はかかるだろう、という凝縮された内容である。そういった難しい議論を織り込みながら、ドゥルーズがガタリとの協働作業により、構造主義から転回して「機械」をキーワードとする政治的な哲学を始める様子を描く。Ⅴ章は慎重な手つきでフーコーとの関係を扱い、ドゥルーズが、権力の理論を欲望の理論へ一元化しようとした様子が描かれる。ここも微に入り細を穿っている。後半は、「入門書」の範囲をはみ出る。

最後に「自由」を目指して思考し続けたドゥルーズへの肯定を示す。ちなみに、「あとがき」がとてもよいのだが、それはご自身で確かめていただきたいと思う。