2015年4月9日木曜日

【本と珈琲豆】『感情教育』フローベール


フローベールの代表作、19世紀フランス文学の名作である『感情教育』を読んだ。光文社文庫の新訳で、とてもよい訳のように思われた。

以下、多くの引用をしながら、『感情教育』がどれだけユニークな特徴を兼ね備えた作品か、一見ささいなところにも注目しつつ、概観したい。


『感情教育』は、主人公の青年フレデリックの青年期の生活をおよそ十年に渡って描き出す大作だ。しかし、人間の成長や心理を描くだけでなく、1848年前後、革命期のフランスを活写した歴史小説としての価値も高い、とよく言われる。しかも、革命、暴動のパリという大舞台ばかりではなく、フローベールの観察眼と描写はこまやかさは市民の生活や自然の情景に及ぶ。

"夫人の家は、大きな忍冬(すいかずら)が屋根の片側をすっかり覆っているので、遠くからでもすぐわかる。赤く塗られたスイスの山小屋ふうの家で、屋外にバルコニーがついている。庭にはマロニエの古木が三本そびえていて、中央の小高い塚には、一本の木の幹にささえられたわら葺きの日よけがある。スレートの塀のしたには、からみそこなった太い葡萄のつるが朽ちたロープのようにところどころで垂れさがっている。鉄柵の呼び鈴は引くのにやや力がいる。……(下巻 p.71)"

こうしたこまやかな描写は、実見や調査の入念さのためだが、静物画のような美しさを文学にもたらす。

" 遠く人里を離れて自分たちだけになったつもりでいたが、銃をかついだ密猟監視人や、ぼろを着て、長い小枝の束を背負った女の集団がふいに通りすぎたりした。
 馬車が停まると、あたりは水をうったような静けさだ。ただ、轅(ながえ)につながれた馬の鼻息と、かすかな小鳥の鳴き声がくりかえし聞こえてくるばかり。
 森のはずれには、陽がさして明るい場所もあるが、その奧は暗がりのなかに取り残されたままだ。……(下巻 p.199)"
 
これはフォンテーヌブローの森を恋人と馬車でゆくシーン。ことさらに強調された表現を排していながら、情景が目の当たりに浮かぶ。その効果は、現実味を与える小さな光景を、緻密な文章で連ねることによっている。

また、時代や世相を映すという点では、以下のような「列挙」の技法も使われている。魔法のような途切れのない一文にこれらを詰め込んで無理がないのは、ふつうの文章のようでいて技巧派である。(ついでに、訳文もよい。)

"……暖炉のうえには鏡のかわりにピラミッド形の飾り棚が載っていて、それぞれの棚には骨董品のコレクションがずらりとならんでいる。古い銀時計、ボヘミアガラスの円錐形花瓶、宝石のついた留め金、翡翠のボタン、七宝焼の装身具、陶器の中国人形、金めっきのマントをまとったビザンティンふうの小聖母像などで、こうした品々が、絨毯の青みがかった色、スツールに移る真珠母色の光沢、それに栗色の革でおおわれた壁のかもしだす鹿毛(かげ)色とともに、黄昏の金色の光のなかでひとつに溶けこんでいる。……(下巻 p.39)"

他方、心理描写はどうか。自然や時代についてこれだけの精密な描写をくり出すフローベールであるから、人間心理についてもさぞかし穿った、ことこまかな描写を使うのではないか、と思われるかもしれない。ところが、僕の感想ではさにあらず、あえて平凡さのうちに表現を落とし込むような風がある。たとえば、ひとつの恋のクライマックスで、主人公のフレデリックが告白をする場面。

"「いったいぼくは、なにをするためにこの世に生をうけたのでしょう? 富や、名声や、権力をえるために汲々としている人たちもいます。ぼくは定まった職に就いているわけではありません。ぼくの心はもっぱらあなたのことで占められています。あなたこそがぼくの全財産であり、ぼくの生活や考えの目的であり、中心なのです。空気がなければ生きていけないように、ぼくはあなたなしでは生きていけません。……」
(中略)
 フレデリックは言われるままに部屋をでた。夫人を心から愛していたからだ。
 しばらくすると、自分自身にひどく腹がたち、われながら間抜けもいいところだと思ったものの、翌日になるとまた夫人を訪ねた。(下巻 p.69-70)"
 
告白の台詞は文学的な修辞によらず、どちらかと言えばありがちで平凡である。夫人から拒絶を受けたあとの態度もさっぱりと「部屋をでた。」とひと言で終わっている。そして、その直後には腹がたつというリアリズムをもってくるが、描写は相変わらず淡々としており、著者は登場人物に入れ込まない。

次に、フレデリックを取り巻く女性のひとり、若いルイーズの恋について簡潔に述べた箇所を読んでみよう。
 
" だいぶ以前から、ルイーズは宗教的なひたむきさと本能的欲求のはげしさをあわせもつ、いかにも子どもらしい恋心をいただいていた。フレデリックは友だちであり、兄であり、先生でもあって、娘に知的な楽しみをおしえ、娘の胸をときめかせ、ひそかな、しかし根強い陶酔感を、知らず知らずのうちに心の奥底にそそぎ込んだ。フレデリックがパリへ発ったのは母親が亡くなった直後で、ちょうど悲しみのただなかにあったときだから、ふたつの不幸が娘の心のなかでひとつに混じりあった。離れて暮らしていると、フレデリックの姿は思い出のなかでしだいに理想化されていった。もどってきたときには後光につつまれているようにすら思え、ルイーズは再会の悦びにどっぷりと浸っていた。(下巻 p.25)"

この一段落でルイーズの恋の始まりから発展、その性質まですべてが語られている。どこにも無理がなく、心理の襞に踏み込みすぎず、それでいてリアリティはきっちりおさえた無駄のない文章である。

こうしてみると、『感情教育』は「感情」に焦点を当てて、多様に描き出す心理小説というより、19世紀前半の革命期フランスの風景から都市生活までをきめこまかに記した「叙事詩」のように思えてくる。「叙事詩としての小説」。そんな風に『感情教育』をぼくは読んだ。

最後に、ぼくの好きなシーンを引用しよう。小説の冒頭近く、主人公が親友と若き日にふたりで過ごした時間を描いている。
 
" 夏の夕刻、ぶどう畑ぞいの砂利道や野なかの街道を長らく歩きまわって、夕陽をあびた麦畑が波うち、アンゼリカの香りが大気にただようころ、ふたりはなんとはなしに胸がつまってあおむけに横たわり、ぼんやり陶然とした気分にひたっていた。ほかの生徒たちはワイシャツ姿で陣とり遊びをしたり、凧あげをしたりしている。自習監督の呼び声がした。いく筋もの小川の流れる庭園をぬけ、古びた壁が影をおとす大通りをとおって帰途に就く。ひと気のない通りを行くと、靴音がひびいた。鉄格子の門がひらき、階段をのぼってゆくと、ふたりはさんざん放蕩にふけったあとのように、もの悲しい気分になった。(上巻 p.46)"

ここはとても印象的だが、この後の長い青年期の物語は、女性との恋愛を中心に展開し、ふたりの友情は必ずしも芳しくない。ところが、小説の結末においてまたふたりの友情へ話が戻ってくることで、ぼくはここを伏線のように感じ、きれいな始まりと終止だとも感じた。

【書誌情報】
『感情教育』上下巻、太田浩一、光文社古典新訳文庫、2014