世間話のなかには、無知の楽しみ、というものがあると思う。
たとえば、北海道大学について、東京のひとが、
「冬は吹雪のなかを歩くらしいよ」
「キャンパスも広いから、なかで遭難するんじゃない?」
と笑うとして。冬の北海道に来たことがなく、聞きかじった話や映像によって知っている程度で、あれこれと面白おかしく想像が広がるとしたら、世間話(単なるおしゃべり)の話題として楽しめる。
しかし、そこへ実際に北大に通っている学生も同席したら、「いや、そうはいっても大学は札幌駅から近いし、除雪もしっかりされるし、……」ときちんと実情を伝えるかもしれない。それは正しい知識かもしれない。
けれども、そのとき世間話から失われる楽しみ、というものもあるのじゃないか。正しい知識や実体験が差し挟まれることで、想像のなかで無責任に遊ぶ楽しみが損なわれる、というような。
世間話≒おしゃべりは、知識の交換ではない。必ずしも知識を提供することが話題を提供することでもない。きっかけはごく小さな知識でも、そこから「無知の楽しみ」が広がりうる。それは「たくさんの知識」や「正しい情報」によって埋め合わされなくても大丈夫。
僕は学術的な世界に十年近く浸っているうちに、ついつい知識が話題であるような、それも正しい知識が……というような「おしゃべり観」を身につけていたけれど、そうでもないんだね、といまさら気づいて、改めて書いてみた。