2015年1月29日木曜日

【エッセイ】塵のかなたに


書物を校正するのは塵を払うがごとしだ、ということわざがある。また、「推敲」という熟語は、ふたつの似た文字のどちらを選ぶか、迷いに迷ったという故事に基づく。こんな風にも言う。凡庸な書き手はひとつの文をどうするか悩むが、非凡な書き手は一文字に窮するのだ、と。

どれも大意は同じで、文章の一文字一文字にこだわる、という話である。

ぼくはそうだろうか、とふと思った。俳句のような文芸ならばともかく、それにしても、長い大きな文章を書くときに、むしろ一字一字にこだわらないことのよさを考える。

いま思い浮かべているのは、ホメロスの叙事詩やニーベルンゲンの歌、または源氏物語のような古典作品である。それらは翻訳され、一部が抜け落ち、または現代語訳されても命脈を保っている。大いなる作品であることを失わない。たとえ、翻訳で文の意味がずれてしまおうと、ことばのニュアンスが抜け落ちようと、どこかがすり切れるとしても、まとまった文章としては、生きている。

それはなぜか。そこには、歌があるからだ。校正で払う塵のかなたに、大きなまとまった文章を貫いて滔々と流れる、文章よりも長く大きな歌が、目に見えないけれど、あるからだ、と考える。