2014年7月17日木曜日

よそ者と人文主義者ーー中世ヨーロッパとルネサンスの世界観(前編)

 外から訪れる者と、古い輝かしい時代を汲み上げる者。よそ者と人文主義者。中世ヨーロッパとルネサンスの世界観は、対照的なふたつの「共同体の開き方」を教えてくれるーー。

 以前、『珈琲と吟遊詩人』という本で書いたことなのだが、中世ヨーロッパの世界観は地理的に閉ざされるものであり、ルネサンスは時代的に閉ざされるものであった、そして、それぞれに独特の開かれ方をもっていた、という話。少し言葉はあの本と異なるが、もう一回ふりかえり、ふたつを対照的に並べてみよう。そして、「開く」という視点から「よそ者」と「人文主義者」とはなにかを考えてみよう。

<中世ヨーロッパの世界観>
 中世ヨーロッパの世界観として、『珈琲と吟遊詩人』は阿部謹也(ドイツ史学)の「宇宙観」に関する話をそのまま踏襲した。それによると、中世ヨーロッパでは、「家」やとりわけ「村」が、たとえば垣根に囲われた人為の空間として閉ざされる。その外は、大自然の力や獣たち、はたまた精霊たちの世界である。得体の知れないもの、不可思議が支配している、人間には恐ろしい場所だ。こんな風に「内」と「外」を対比させて、阿部謹也はそれぞれを「ミクロコスモス」「マクロコスモス」と名づける。

 ところが、ミクロコスモスは必ずしも閉ざされた空間ではなく、それどころか、外との交通の経路を常にもっている。たとえば、家のなかには竈(かまど)があり、火が焚かれる。この「火」は外なる大自然、マクロコスモスのものである。また、村のなかにいても「病気や死」といった大自然の出来事は侵入してくる。このように、ミクロコスモスはマクロコスモスといつでも交通して、部分的に外へと開かれてもいるのである。
 
 阿部謹也の考察は、ここから刑吏、粉挽き、放浪者、芸人といった周縁のひとびとがマクロコスモスとミクロコスモスをつなぐ経路になった、という議論に展開してゆく。彼らは、閉ざされた共同体に馴染みきらない点で、旅人や客人のように違和を抱えている。そのために、閉ざされたミクロコスモス(村や、都市も)を、不可思議なマクロコスモスへと開く役割を担う。こうした「よそ者」は、不可思議なマクロコスモスの威力を背負っている。言い換えれば、非日常性や、ミクロコスモスの同質性を打ち破る異質性をもっているということだ。よそ者は、『珈琲と吟遊詩人』の言葉で言えば、「マクロコスモスの使者」である。こんな風に、「内」と「外」をかき混ぜて共同体を開く者が「よそ者」である、とまとめられる。
 
後編に続く。