2014年2月3日月曜日

『リルケ詩集』を読んで

リルケ(1875ー1926)の作風は、一見掴みづらいな、と思っていた。今回、ゆっくり読むことができて、少し明かりが差したと思う。(『リルケ詩集』富士川英郎訳、新潮文庫、1963年)

 私が親しくし、兄弟のようにしている
 これらすべての事物(もの)のなかに私はあなたを見出す
 種子としてあなたは小さいもののなかで日に照らされ
 大きなもののなかでは大きく身を与えていられる
 
 『時禱集』(1899ー1903)より。まだ二十代の作だが、リルケの作風が出ている。「あなた」は前後から「神」だとわかる。たいてい、彼が詩で「あなた」(ドイツ語の"Du"、親しい二人称。)と語りかけるのは「神」を指す。
 
 あなたは未来です 永遠の平野のうえの
 偉大な曙光です            (『時禱集』より)

こういう節にはニーチェの響きも聞き取れる。

 神よ あなたもまたそうなのです そしてあなたは
 日々に彼を深みへと引きずりこんでゆく石のようです (『時禱集』より)
 
ここまで来ると、もはやキリスト教の神とは思われない。リルケが自然に対して見出した、リルケにとっての神のようだ。この態度は「汎神論的」とも呼ばれている。

 <幼年時代
 待ちくたびれ 鬱陶しい物事にみちみちて
 学校でのながい不安や時が流れ去ってゆく
 おお 孤り(ひとり)ぽっち おお 重苦しく時をすごすことよ……

幼い日を懐古する姿勢は、『マルテの手記』や『若き詩人への手紙』にも見られる。それは、ロマン的な甘いノスタルジーとも、ヘッセの『車輪の下』のような苦しい自己形成の思い出ともちがうようだ。

 <アシャンティ
 私にはそれを見るのがひどく不安だった
 おお なんと動物たちがはるかに誠実なことだろう 

思い出に混じるかすかな不安、消し去りようのない臆病な気持ち。それと向き合うことが懐古であるかのように。

 <嘆き
 私は思う たぶん私は知っているのだと
 どの星が孤りで
 生きつづけてきたかを——
 どの星が白い都市(まち)のように
 大空の光のはてに立っているかを…… 

星もリルケにとっては大切な言葉だ。都市、とりわけ大都市に対してリルケはかなり懐疑的だった。嫌い、とまでは言わないが、それはやはり大きな不安と虚妄のようなのだ。

 <秋の日
 主よ 秋です 夏は偉大でした
 あなたの陰影(かげ)を日時計のうえにお置き下さい
 そして平野に風をお放ち下さい 

これは「秋の日」の冒頭だが、べつに「日時計」と題された詩もある。抽象的な表現が非常に多いリルケにとって、日時計は具象的なモチーフとして大事なもののようだ。

 <
 木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
 大空の遠い園生(そのふ)が枯れたように
 木の葉は否定の身ぶりで落ちる

「落ちる」も何度か見かける。「星の落下よ」と呼びかける詩もある。

 <橄欖園
 のちにひとびとは語った ひとりの天使が来たと——
 
 だが なぜ天使だと言うのだろう? ああ 来たのは夜だ
 夜が冷やかに木の葉をゆすり
 使徒たちが夢のなかで体を動かしたのだ
 なぜ天使だと言うのだろう? ああ 来たのは夜だ 

  ※橄欖はオリーブ。『新詩集』(1907ー08)より。

そして、「天使」。後年、リルケの大作となる「ドゥイノの悲歌」にも天使たちが舞う。ちなみに、この本では「ドゥイノの悲歌」をまるごと省略している。併せて、どこかで読まれたい。

 <天使に寄す
 たくましい 無言の 境界に置かれた
 燭台よ 空は完全な夜となり
 私たちはあなたの下部構造の暗い躊躇のなかで
 むなしく力を費やしている 

「境界」は人間世界の果て、「燭台」は天使を指すとの注釈が付いている。(訳者による。)

では、最晩年の詩集「オルフォイスのソネット」(1923)へゆこう。「神」や「天使」といったキリスト教的な言葉を使っていたリルケが、「オルフォイス」=オルフェウスという古代ギリシャ神話の人物を登場させる。それは「歌」の寓意であるらしい。

 そこに一本の樹がのびた おお 純粋な乗り超えよ
 おお オルフォイスが歌う おお 耳のなかの高く聳えた樹よ
 そしてすべては黙った だがその沈黙のなかにさえ
 現れたのだ 新たな初まりと合図と変身が

同詩集の冒頭より。

リルケは旅のひとだった。ロシアにもスペインにもイタリアにも行った。本の解説には、「生の不安をその繊細な神経のふるえをもって歌っている」とある。彼の不安は、都市を旅するものの孤独、にも思える。どこにも留まらないで、飛翔しようとする、けれど人間界を超えてはいかない天使のように、リルケは地上で歌ったのだろうか。