2014年1月23日木曜日

【エッセイ】話す言葉

話すというのはとくべつのことです。ふだん、わたしたちは「話す」というのを「AさんとBさんのあいだで内容のあるやりとりをする」「2本の矢印が行き交う」ことのように想像します。けれども……

——もし、世界で初めて言葉を発するひとがいたら、なにがそれを言葉にするのでしょう。言葉をもたぬひとが丘のうえに立ち、昇り来る太陽に向かって「Vah...(ヴァー)」と言ったとしたら、なにがそれを叫びやうめきではなく、「話す言葉」にするのでしょう。——「話しかけること」が。その声が、太陽であれ、大気であれ、ひとであれ、外の世界に向けて「話しかけられていること」がそれを言葉にするのだと思う。ただの音声にするのではなく。

話すというのは、胸のうちから周りの世界へ向かって、湧き上がるものを解き放つことです。わたしたちはふだん「内容のやりとり」をイメージしがちですが、話すというのはなによりも表へ出すことです。言葉を投げかけること。周りの世界に向かって表現すること。

他方で、「内容のやりとり」で言う「内容」も二次的なものです。わたしたちはなによりも「なにか」を表現したいのです。どうしても考えたことを言い表したかったり、愛するひとに声を掛けたかったりするのです。「元気ですか」——それだけの言葉でも、どんなにたくさんの気持ちを込めて言われることができるでしょうか。そしてまた、自分の考えをうまく言えなかったとしても、言葉が切れ切れになり、下手くそで、口ごもってしまうとしても、——その言葉は「話しかけられて」いるのです。「内容」がほとんどなくても、不明瞭でも、そこには話す言葉がちゃんとあるのです。

こうして、話すということは「内容のやりとり」である以前に、「周りの世界に向かって話しかけること」です。では、その「話す」ということを、わたしたちはどういう風にして大切にできるでしょうか。——「聞く」ことによって。耳を傾け、受け止めることによって。たとえ内容がわからなくても、うまいやりとりが続かなくても。

周りの世界に向かって話しかけること、と、それを受け止めること。