2012年11月18日日曜日

【エッセイ】旭川紀行ーー旭川奇考


訪れた友達が言っていた、「なんにもない街ですね」。「商店街を奧へ行くと、ちょっとおしゃれな喫茶店が地下にあって、珈琲を飲みましたよ。」「地元のおばちゃんたちが、カウンターの店主に話しかけていましたね。」彼の旭川の印象は、そんなところだった。

旭川を愛すること。さびしさの中の賑わい。または、賑わいの中のさびしさ。それは、ちょうどクリスマス・イルミネーションの表通りを歩くときに吹きつける粉雪。高い建物に灯る明かり。けれども、人通りの少ない道。歴史ある落ち着いた喫茶店。だが、人影はまばら。たくさんの雪が降りつのる。

旭川はさびしい。あちらこちらに小綺麗なお店が、こだわりの雑貨屋さんが、カフェがある。散在する。......その真ん中を、茫漠としたどこか空虚な大通りが貫いて、だけれど、歩けば、なにかが見つかるだろう。たしかに人は少ないかもしれない。けれど、みな、雪を踏み越えて歩いている。

僕は、旭川が住みよいとは思わない。なにも知らないけれども。あるいは、旅先として、夜景がどうとか、素敵な宿がいくつかとか、そういうこともないのを知っている。無機質にも見えるホテルが林立している。だが、なにか、あの風景のなにかが、惹きつけて止まない。完成した駅舎も、百年の懐かしさを背負って見える。

新しい駅舎は居心地がよく、広々として天井が高く、ぐずぐずと長居もしたくなるが、いざ出て、街へ。友達が「なにもない」と言った商店街へ繰り出す。僕もまた、「わずかなものしかない」とか「かすかになにかがある」とか、形容したくなるけれど、温かい人たちがお店をやっているのを知っている街へ出かける。

冬になると、旭川へ旅をしたくなる。