2012年10月25日木曜日

福永武彦『草の花』を読んで

『草の花』は、福永武彦の主要な小説である。

◆ 表題『草の花』について
可憐なタイトルだ。小説全文のうちで、「草の花」という単語は、2箇所に出てきたと思うが、印象的なのは、次の箇所である。

「そして、時間は絶えず流れ、浅間の煙は何ごともなく麓の村に灰を降らしていたのだ、草の花は咲き草の実はこぼれ、そして旅人は、煙のような感傷を心に感じていたでもあろう。」

ここは、物語の後半にあたり、主人公は、一人、信州で夏の休暇を取る。その冒頭の描写。

タイトルの由来は、直接的には、エピグラフ(巻頭の引用)に掲げられた聖書の句「人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花の如し。」(ペテロ前書、第一章、二四)に求められるようだが、この聖句をどう作品とからめて解釈するかは難しい。というのも、小説のテーマは、汐見という無神論者の「孤独」と「愛」であり、きわめて個人的な信条と心情へ踏み込むものだから。作品の中では、「人はみな……」という語り口は採られていない。また、ヒロインの千枝子がキリスト者であるが、汐見は彼女の宗教を自分は拒絶して、自分の孤独を貫くのであるから。それでいて、なぜ、聖書からエピグラフをとったのか、僕にはよくわからない。

ともあれ、その前に引用した信州の描写は、印象的で文学的な色合いも強い。『草の花』というタイトルは、むしろ、著者にとっての信州の風景を凝縮した言葉であったのかもしれない。

◆ 友人、藤木との精神的な愛
小説の全体の見取り図を描けば、以下のようになる。まずは、枠構造があり、語り手の「私」が、サナトリウムで汐見(しおみ)という男を知る。汐見は、無謀な手術に挑み、死んでしまうが、その前に、「私」にノートを託す。それが、汐見の人生を振り返ったものである。「孤独」と「愛」が二重螺旋を描いたような人生を。物語は、ノートの中へ。

そうして、第一部では、汐見が十八歳のとき、友人の藤木と交わした愛について語られる。第二部では、二十四歳のとき、その藤木の妹である千枝子と交わした恋愛が語られる。いずれも、汐見の愛の情熱が、孤独のもたらす葛藤によって、奇妙にねじ曲げられ、相手と通じ合わないまま、終わる。

第一部は、藤木との友情を描くが、汐見はプラトーンのイデアなどを持ち出し、自分の愛情がすぐれて精神的であることを告げ、藤木にも同じ「愛し返し」を求める。汐見の愛は、少なくとも肉欲には基づいていないようで、藤木の魂の純粋さを愛している。ところが、汐見の思想が深まれば深まるほど、理屈っぽくなればなるほど、藤木は「そっとしておいてください。」とくり返し、汐見から遠ざかる。ほどなく、藤木は十九歳で病死する。かくして、汐見の思想的な愛は、彼のもつ思想によってかえって妨げられもする。それゆえ、汐見の思想上、避けることができない「孤独」の前に破れた、とも言える。

この第一部は、作者が作品構成のために、ひねり出した感を覚えた。おそらく、第二部の(よくある男女の)恋愛だけでは、構成上もの足りなくて、思想を十全に打ち出せない、などと考えて、第一部を設けたと思われる。というのも、藤木との友情だか恋愛だか、はっきりしない男同士の関係は、その心理描写やシチュエーションの作り方を見ても、作者の実体験や実感に基づいているとは思えず、とても観念的だからである。とにかく、二人きりになっては、汐見が藤木に愛を説いて(自説をぶつ)は拒絶されるばかりで、書き割りの前でお芝居をしているようだ。また、二人で水の上のボートに取り残されるシーンなどは、いかにも作りものの感が強い。この第一部を設けた目的としては、たぶん、汐見の「孤独」や「愛」が、性愛にかぎられない、普遍的な人間関係のもとで起こる、と作者は説きたかったためだろうが、どうにも小説としては弱いと思えた。

◆ 人間の愛と孤独
第二部は、千枝子との恋愛で、ここは景の描写も、男女の会話も、心理の変化も、小説家の腕が生きている。相変わらず、シーンの設け方は、「うまくできすぎている」感が強いものの、それは、この作品が思想的な小説であるということだろう。

汐見はここでは、思想上の(プラトンがどうのという)愛ばかりでなく、明確に、男女間の現実的な恋愛をも、生きている。千枝子に恋をして、キスを求め、身体に触れようとしている。その点、第一部よりも「孤独」の葛藤は、だいぶ現実味を帯びる。作品の終結に近い部分で、ふたりはこんな風に会話する。

ーーあたしは汐見さんが御自分のことを孤独だとおっしゃるのを聞くたびに、身を切られる思いがするの。あなたがどんなに孤独でも、あたしにしてあげられることは何にもないんじゃないの。
ーー君が愛してさえくれればいいんだ。

ここでは、汐見は真摯に愛を伝えており、愛が孤独を癒す(治す)とさえ、「楽観的に」考えているように見える。ところが、この後、千枝子のキリスト教信仰が問題になる。

ーーでも、神を知っていれば、愛することがもっと悦ばしい、美しいものになるのよ。
ーーじゃ君は、誰か信仰のある人と愛し合えばいいさ。僕のような惨めな人間を愛することなんかないさ。

こう、皮肉を言ってしまう。けれども、その直後にはきちんと付け加える。

ーーしかし、誓って、僕ほど君を愛している人間は他にいないよ。

これは、汐見の率直な気持ちであろう。そして、この愛は、神の愛に対比して、まさしく人間的な愛、だろう。それは、藤木のときにそうだったような、精神的な純愛、ともちがう。それを含むとしても。

ところで、神については、汐見はこんな風に語っている。

——僕は神を殺すことによって孤独を靭[つよ]くしたと思うよ。勿論、今でも、僕はイエスの倫理を信じている。[中略]……わが心いたく憂いて死ぬばかりなり、と言ったゲッセマネのイエスの悲しみなんぞは、痛いほど感じている。しかしそんなものは、僕の文学的な感傷にすぎないだろうよ。君たち[千枝子たち]の信仰とはまるで別ものだろうよ。

すなわち、この小説では、(キリスト教の)「神」のテーマは副次的な題材であり、主題である「孤独」をよりいっそう強める、宗教の側から、宗教による救いを断ち切る形で「孤独」を強める、一つの手段となっている。そんな風に解釈できるだろう。実際、クリスチャンが書いた近代日本小説に比べれば、宗教的な話題や、その思想的闘いは、この小説であまり力強く描かれてはいない。

こうして、プラトニックな愛(精神化された愛)に依拠しつつも、もっと肉体や生活のつながりを採り入れた、人間的な愛を、汐見は求める。そして、いま見たように、そこには、神や宗教の入る余地はない。ところが、そういう「愛」をもつ一方で、汐見は「孤独」をもち、自分が徹頭徹尾、孤独を捨てない(たとえば、愛情に溺れることで捨ててしまったりしない。)ことによって、自分の精神を保っている。孤独というものを、ほとんど信仰するかのように、保つことで、汐見の存在が保たれている。すなわち、自身の精神的なバランスを保ち、また、汐見が生きていくための支えのようなもの(アイデンティティ、自分が何者であるか)を保っている。物語の終わり近く、ふたりは人目につかない高原の一隅で、身体を重ねそうになるが、汐見は、土壇場でそれを止めてしまう。こうして、汐見は自分の孤独を貫いて、恋を終える。千枝子はべつの相手と結婚し、汐見は兵隊として召集される。

◆ 『愛の試み』とともに
汐見は「孤独」を貫くことで、「愛」をも貫いたのだろうか。——それは、この小説の問いかけ、と呼べるかもしれない。つまり、汐見の「愛」は成就したのか、しないのか。作者は、あまり明確な回答を避けるとともに、この問いそのものをも、強く打ち出そうとはしていないように見える。「愛」の成功・失敗という結末の解釈よりも、「愛の難しさ」を、そもそも「愛とはなんなのだろうか」というところから、作者は刻印して、物語を記したように思える。そして、「愛とはなにか」の答えには、必ず、「孤独」という主題がつきまとう。己の、そして相手の「孤独」にどう処するか、ということと、「愛すること」は不可分なのだと、半ば前提のようにして、福永武彦は主張している、と言える。それが、小説という形ではなく、思想的な文章にされるのは、別著『愛の試み』においてだ。逆に言えば、『愛の試み』において、観念的で、敷衍されない「孤独」の概念を、こちらの小説を題材にして、探ることもできると思う。その意味では、『愛の試み』を読み解くヒントを散りばめたような、本でもある。