2012年7月21日土曜日

音楽と余裕

最近、僕は、札幌で、三日ほど、地元のミュージシャンたちが活躍するLIVEを観た。みな、手売りで自主制作CDを売っているような若者たち。Ustreamでインターネット配信したり、路上で演奏したり。とても活気がある。楽しかった。

ここでは、今昔取り混ぜて音楽シーンを思い浮かべながら、ある時代に生まれる音楽と、制作や鑑賞する僕らの心の余裕について、考えてみよう。

タルカスは、衝撃的な音がする。エマーソン・レイク・アンド・パーマーというバンドが、1971年に発売したアルバムで「プログレ」(=プログレッシブ・ロック)と呼ばれるジャンルの音楽となる。「タルカス」は、アルバムの名前で、そのジャケットに描かれた、戦車とアルマジロを組み合わせた、へんてこな化け物の名前でもある。意味はない、らしい。

ビートルズが活動したのは、1960年代のほぼ10年間だったけれども、彼らもさまざまな音楽を残した。サイケデリックなミュージックも、シャウトするロックンロールも、コンセプト・アルバムも、意味の分からない歌詞を連ねたような音楽も。巷では、イエスタデイ、レット・イット・ビーやヘイ・ジュードといったメロディアスな歌が、もっぱら有名かもしれないが。

ビートルズが好きだった若者たちには、ヒッピー的な傾向も見られた。東洋的な、なんとなく神秘主義で、文明から距離を置く、そういう生活に憧れたヒッピーたち。実際、ビートルズ自身がインドへ旅している。たしか、メンバーのリンゴは食べ物が合わなくて、早くに帰国したような。日本では、沢木耕太郎の『深夜特急』(インドの場面から始まる。)が、旅する人たちの間で「バイブル」的な扱いをされていたのを、いまの若い世代も知っている。彼のユーラシア横断は、1970年代だった。

やっと日本へ話が戻ってきた。もちろん、日本の音楽シーンをまとめるような仕事は、とてもできないが、ひと言、ふた言、なにかを言いたい。90年代は、J-POPの音楽環境の全体に、活気があったように思える。「よい音楽」が生まれた、かどうかは、言えないけれど、少なくとも経済的には音楽業界は、潤っていた。小室哲哉さんは、何億も稼いで話題になった。中高生も、CDを買うことが一つのかっこよさ(ステータス)であり、抵抗なんてなかったように思う。

2000年代になって、そのどこで区切ればよいのかわからないが、CDが売れなくなった。YouTubeで音楽が聴けるし、TSUTAYAやゲオで、1枚200円〜でCDが借りられる。携帯音楽プレイヤーの「iPod」が流行って、パソコンに取り込まれた音楽が消費される。CD文化は、レコード文化のように、衰退しているのかもしれない。(パソコンへの取り込みを防ぐ「コピーガード」は、支持を得られずになくなっていったし、音質のいいSACD(スーパーオーディオCD)も、あまり出回っていない気がする。むしろ、音質の悪いMP3ほかのデータ形式で十分、という人が圧倒的な多数派になった。)

2011年のCDランキングは、「AKB48」と「嵐」の2グループが、ほとんど制覇する形になったが、彼らの本業はバンドではなく、タレントだろう。テレビで見られる、生で観られる、というアイドルたちへの親しみを込めて、CDを買うような文化に、音楽業界も移りつつあるのだと思う。(ちなみに、それは、有名なアイドルにかぎらず、手売りでCDを売るインディーズのアーティストたちも同じだと思われる。)こんな風に、CDという媒体を取り巻く状況、音楽を聴く場面(たとえば、iPodの登場。YouTubeによる視聴。)が、変わりつつある。

そういうわけで、日本の音楽シーンは、ここ10数年で大きな「環境」の変化を経験した。だから、ここで重要なことは、「音楽の質」について云々するのは、だいぶ難しいということ。また、それは音楽シーンの変遷に関する、大きな原因にはなりにくいかもしれない、ということ。たとえば、「90年代には、「すぐれた」アーティストが、「新しい」音楽を作り続けていたのに、それに比べて、いまは……」といった議論は、できない。いろいろな条件をつけて、特定の視点から解釈しなければ、そういう結論をすぐには、導けない。今のアーティストが悪くて、昔のアーティストが良い、という話にはならない。

けれども、音楽の質について、一つのことが言えるように思える。それは、「J-POPという音楽から、心の余裕(のようなもの)がなくなってきている」ということ。タルカスのような、挑戦的な、聞き手を払いのける戦車のような音楽が注目されることもないし、ヒッピー的な、世の中から外れていく音楽も、受けていない気がする。(ただ、不思議な感じのする音楽、必ずしも、歌詞が意味の分かるものではない音楽は、ある程度、支持を集めているように見える。)

実際、ELP(エマーソン・レイク・アンド・パーマー)であれ、ビートルズの風変わりな音楽であれ、なんでもよいのだが、前衛的なものを受け入れる余裕が、聴衆の側になくなっているのではないだろうか。または、「前衛」にかぎらず、まったく新しいものを待望する心持ち、になれないのではないだろうか、アーティストも、聴く側も。耳に馴染むもの、そっとしておいてくれるもの、ふんわりしたもの、やわらかいもの、刺激が強すぎないもの。そういうものを音楽に対して欲するほど、聴く行為に、余裕がなくなってきているのではないだろうか……。

「AKB」も「嵐」も、顔の見える、メディアで親しみのある、笑顔のやさしい、話せば楽しい、アイドルたちである。彼らが、可愛く、または、格好良く、歌を歌ってくれる。一つのパフォーマンスとして。その欠片としてのCD。他方、アイドルではなく、音楽業界の中で活況を呈しているのは、ミスチル(Mr.Children)あたりだろうが、彼らの音楽は、初期から一貫して、心の襞に分け入るような音楽、直接的な表現も、やんわりした表現も、両方を用いながら、そっと凝りを解きほぐして、撫でてくれるような、音楽である。ヒューマンな(人間味にあふれて、寄り添ってくれるような)音楽。「心地よい音楽」。(……少なくとも、僕にはそう聞こえる。)

2010年に前後する僕らは、もはや「革新的な」音楽を、「前衛的な」「変な」あるいは「古典的な」etc. 音楽を求められないのかもしれない。音楽を聴く心に、それだけの余裕がなくなって。こう言うと、批評家のニーチェ主義者なら、「心地よいものばかり欲する、飼い慣らされた現代人め!」と吐き捨てるところだろうが、僕が言いたいのは、そういうことではない。これは好みだけの問題ではなくて、精神的にも、経済的にも「余裕」がないような、社会状況を鏡のように映す問題である、と思われるから。

札幌のLIVEで僕が聴いた音楽も、「心地よいもの」が多かった。中には、反対に、死に物狂いでなにもかも否定するようなアーティストもいたけれど、それはそれで、やはり余裕のなさの表れではないのか。彼らは、音づくりにも、歌い方にも、工夫しながら、僕にも、いろんな意味でいいな、と思える音楽を作っていた。けれど、そうだとしても、根底には、そういう流れを共有しているように、思えた。心に余裕のない時代の音楽、という……。

そろそろ結論の段になったけれども、どうだろう。僕らにできることは、それでも、マイナーなところで、ちがう流れを探り、たどっていくことなのだろう。ちなみに、僕は30歳前後だけれど、もっと年配の方々からは、「ジャズが心の余裕から生まれたと思ってんのか? 1960年代がベトナム戦争の時代だって、わかっているのか?」といったお叱りを受けるかもしれない。「それでも、時代の逆境に耐えて、彼らは「よい」「新しい」音楽を作ったんだぜ?」と。そう、僕らにもいろいろなことができるだろう……。とりあえず、音楽を聴こう。音楽をやろう。音楽を見よう。そこから、音楽が芽吹く。

2 件のコメント:

  1. 一読、少し話題が発散気味かな?と思った。
    しかし、レビューをしようと読み返していると、次第にしっくりきた。

    60年代、田舎の少年には、音楽と文学くらいしか、楽しみがなかった。
    あらゆる夢と希望と感動を、音楽と文学に託した。
    今思えば、貧しかったけれど、平和で幸せな子供時代だったと思う。
    僕らには、豊穣な未来が待ち受けているように見えた。

    だから刺激も知的な感動も、音楽と文学に求め、
    音楽に対する要求(欲望)は現在よりも格段に大きかった。
    こんなにあがり症でなかったらミュージシャンになっていたかもしれない。

    タルカスの衝撃を僕らは驚喜して迎え、
    20分の曲を各パートを暗記するくらい繰り返し聴いた。
    それは聴き手に余裕があったからと言うよりは、多くの少年にとって音楽がすべてであったから。
    その期待はミュージシャンにも確実に伝わっていたと思うし、それが、あのような音楽を生み出した要因と思っている。

    年をとった人間が、現代と比較して、昔は良かったというのは見苦しいものだが、現代は、刺激や、感動を求めたければ、音楽よりも適したメディアが沢山ある。
    音楽は、かつての魔力を失ってしまった。
    もう聴衆は、音楽に多くを求めなくなった。
    いまや音楽は人生ではないし、友人との会話で話題を提供するものであり、無知だと思われないための雑学になりさがっているのではないかと危惧する。

    聴き手の変化が、音楽の変化をもたらしたという吟遊詩人さんの趣旨には賛成だ。その変化は、余裕だったのかもしれない。そして、その直接的な原因は、聴き手に対する音楽の影響力が相対的に低下しているためだという、ありきたりの結論になってしまったのだが・・・。

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    1. 「昔」は、音楽に希望を託し、音楽が人生であるような、そういう聴衆と制作者が多くいたから、音楽の制作も意欲的な方向へ、向かったという。

      その「魔力」は、単に聴き手の心的な態度ではなくて、社会的な環境(あえて、堅い言葉遣いをしますが)に下支えされるのでは、と気になります。そこを分析しようとすると、不毛になりそうで歯がゆいですが。結局、時代が変わってしまった、と言えるだけなのでしょうか。

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